鎌倉 万福寺。 源義経の腰越状が残る寺、鎌倉・満福寺で義経と弁慶の足跡を辿る歴史旅

中世には、「麻生郷」という郷名が使われるようになるが、これは律令制度の戸数を単位としたものではなく、平安時代中期より荘園(しょうえん)や国衙領(こくがりょう)の中で生まれてきた、その土地の有力者の支配する共同体を行政単位とする郷として使われた。

功績はあっても罪はない身だと思うのでむなしく悲しい。

治承・寿永の乱後半に大活躍をした源義経は壇ノ浦の戦いで遂に平家を滅ぼしました。

義経と弁慶にとって、満福寺での滞在期間は人生の大きなターニングポイントになったかもしれません。

注2 貴族や社寺の私有地。

頼朝は義経が頼朝の許可を得ず、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使などの任を命じられたことを快く思っていませんでした。

源順著・承平年間(九三一~九三八年)撰進。

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当時の郷村名・家臣名、知行貫高を記したもの。

ただお風呂が別棟なので一旦外へでなければならないのと、外カギがかけられないのでちょっとそれが不便でした。

そんな風な思いが絶えていき、今後の頼朝との関係について、ここで1つの決断を下だして西へと立ち去ったかもしれません。

人気観光地である湘南・江ノ島から非常に近く、近隣には腰越漁港もあり、「しらす丼」をはじめとした海の幸の味わいを求める人たちが多く訪れるエリア。

私(義経)には野心などありません。

類集した漢語の事項に音・意義を漢文で注釈、さらに和訓を施し出所を考証したもの。

また満福寺は弁慶寺とも呼ばれています。

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